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不動岩(ふどういわ)果樹園

立山 誠一(たてやま せいいち)91歳
農家としての心構え「いつも年下の人から学んできた、人との出会いこそ我が喜びにして我が人生」


不動岩果樹園は熊本県山鹿市に位置し、標高389mの山の中腹から頭上に向かって悠然とそびえ立つ不動岩の麓に農園があります。

立山さんは昭和8年生まれで、立山家の⻑男にして代々地主の裕福な家庭に生を受けました。戦前の立山家は5町5反の農地を有し、小作人に水稲を作らせていましたが、昭和20年に終戦を迎えると同時にGHQの方針によってすべての農地が没収されました。

その結果、戦前とは打って変わって生活に困窮することに。戦後は細々と⽶や⻨を生産するかたわら、夏場は養蚕業で⾷いつなぐ生活を余儀なくされます。

転機が訪れたのは今から56年前の昭和43年。農地の他に雑木林を保有していた立山さんは、ミカンブームに乗る形で、ミカン生産農園を開設。夫婦でゼロから雑木林を開墾し、土づくりと基盤整備を進めてミカンが生産できる農地へと作り変え、最終的には3町5反まで作付面積を拡大しました。


当時はミカンどころか農産物が育つ環境とは程遠い、岩だらけの土地でした。元来この土地は標高が高くて温かい海風も届かないのみならず、冬季には氷点下6~7℃に下がり、ミカンを栽培するには不適合な環境です。


当時熊本といえば、海風の良く吹く栽培環境に恵まれた熊本市河内町の河内ミカンが有名で、開園当時は「なぜこんな場所に」と疑問を持つ人もいたとのこと。開園から10年はまともなミカンは生産できず、満足のいくミカンが生産できるようになるのに15年間を要したそうです。


時には冬場ミカンが枯れないよう、夜間に樹の周りに毛布をかけて凍死を防ぎ、樹体を守り抜いた経験もあるとのこと。4月25日前後に満開を迎えるミカンの花は、夜温を15℃以下に落とさないと新芽に養分が取られ、実つきが極めて悪くなるので、非常に繊細な栽培管理が求められます。


昭和43年~53年の10年間は、開園事業費を返済すべく農協に出荷していました。ミカンが採れ始めるのに5年間を有し、この5年間は耐え忍ぶ日々で、手取りにしてkg単価100円を目指した時期です。


昭和54年からは新たな挑戦として久留⽶センター⻘果への個人出荷を行い、河内ミカンとの競争で評価を勝ち取り信用を掴みます。


転機となるのは、「金峰」というブランドみかんを熊本果実連からの委託で生産販売し、昭和61年度の東京市場の初売りでkg単価450円の値をつけたことです。この時、立山さんは初めて「ミカンで生活できる」と胸を撫でおろしました。


その後、晩生品種の「金峰」は隔年結果を起こしやすく、毎年の経営が安定しないので、不動岩果樹園の生産品目から除外されますが、この経験が立山さんの記憶に深く刻まれたのです。

平成2年からは福岡大同⻘果に出荷を開始して実績を積み重ねた後、その販売土壌を弟子の農家に譲ります。平成5年からは地元の高級百貨店での取引が開始。平成10年からは京都⻘果合同に出荷を開始。飛躍的に評価が高まり、高単価での取引を行います。

それ以降、現在に至るまで不動岩果樹園のミカンは都市の大手百貨店から高級スーパー、日本一の高級果物店に至るまで直接取引によって商品が納品され、本物志向の消費者が舌鼓を打っています。


こうした数々の実績は立山さんの血の滲むような努力の賜物ですが、立山さんが一貫してこだわってきたことは「安定した高糖度のミカン」です。立山さん曰く「農協出荷の時代は量=所得が成り立ったが、近年はkg単価で勝負しないと経営が成り立たない。そのためには量よりも質、つまり顧客が満足するほどの糖度を実現せねばならない」。


特に最近は異常気象が多発し、高糖度のミカンが収穫できないケースが散見されることから、それゆえの土づくりと基盤整備が欠かせません。一般にミカン農家は13度の糖度を達成するために栽培条件を整えますが、立山さんは17度の超高糖度を目標としています。


昭和60年頃までは化成肥料でミカンを生産していましたが、化成肥料で栽培すると夏場に樹の細胞が粗くなり、冬場に凍害を受けてしまうので、平成に入ってからは有機質肥料に切り替えました。その結果、樹が凍害を受けないばかりか、糖度向上に繋がったのです。


現在は魚粉と肉粉主体のブレンド肥料で肥培管理を行い、冬から春にかけては夏場の干ばつ対策のために牛糞堆肥と赤土を混ぜて客土し、地表部の保水力を高める取り組みを行なっています。

ミカンの樹は山の斜面に沿って縦列に1.5mの株間で定植。列と列の間の通路には砂利、その上からコンクリートを施工することで重機の導入を容易にし、さらには受光態勢、樹間の風通りを良くすることで日頃の栽培管理、収穫作業を簡便化するという「すべてが計算された圃場」がここにあります。


注目すべき点は水はけです。降雨の後に水がどのように流れてどこで止まり、また角度を変えて一定の場所に滞留せずに農園均等に流れていく仕掛け、定植しているすべての樹体に水が均等に流れていく方程式は立山さんしか成し得ない業です。


通路にコンクリートを施工すると、傾斜地の欠点である土壌の流亡を⾷い止め、土壌が乾きやすく根張りが良好となるので、自然と糖度が向上していきます。ミカンの樹が植わる土壌表面には白い防水シートが張り巡らされ、雨天時には開き、晴天時には閉じることで樹体に最適な水もちと水はけを整える仕組みで糖度が高まります。


梅雨の時期には防水シートを開き、8月上旬ごろから糖度を高めるべくシートを閉じて、9月1日時点で10度に達しているかが高糖度ミカン栽培の立山さんの基準。


特筆すべきは傾斜地の場合、農園上層部から流れた水が下層部に溜まるので、下層部の土壌水分量は多くなり収穫したミカンの糖度は一般に低くなりますが、なんと不動岩果樹園のミカンはその逆で、下層部の方が甘いという極めて特殊な傾向を示しています。


さらに生育のある段階で13度以下の樹と14度以上に樹を振り分けて、出荷先の要望に応じて出荷するミカンの個体を選び分ける徹底ぶりは立山さんにしかできない荒業です。


立山さんが偉大な点は、こうした骨格技術を惜しみなく他の生産者に伝授することで、ときには毎日のように全国のミカン農家がマイクロバスで研修に訪れるほどでした。かつては愛媛大学農学部の学部⻑が直接訪問して現場検証試験を行うなど、研究者からも一目置かれています。

こうした立山さんの偉業を受け継いで、ミカン作りに勤しむ男こそ二代目社⻑の松本 雄一(まつもと ゆういち)さん27歳です。

松本さんは就農5年目にして既に立山さんの右腕として見事なミカンを作り上げる実力者。


松本さんは祖父がミカン山を保有しており、祖父の作ったミカンがとても甘く美味しかった思い出から、ミカン生産に強い興味を抱いていました。熊本県の私立高等学校普通科を卒業した松本さんは、18歳の時に熊本県農業大学校に入学。


2年間、専門知識の修得に励んだ後、20歳で国立大学法人佐賀大学農学部に編入学し、農業経営学コースで2年間を過ごします。卒業後、海外農業研修制度を活用してアメリカ農業研修プログラムで⽶国に行く予定でしたが、コロナの影響で渡航が中止となりました。


ミカン農家としてすぐに就農しても上手くいかないと確信していた松本さんは、22歳の時に履歴書を持って全国的にもカリスマ生産者として名高い立山さんを訪ねます。


その当時、立山さんは後継者として2名を雇用したばかりで、松本さんからの申し出を一旦断りましたが、 松本さんは断じて譲らず、「給料はいらないので雇用してほしい」と切願。その男意気に惚れた立山さんは入社を承諾します。


松本さんは当初、立山さんに2~3年間師事し、技術が身に付いた段階で独立する予定でした。そのため松本さんは毎日立山さんのもとを離れず「毎日必ず一つ立山さんに質問する」を自らに課し、日々の農作業に励みました。


松本さんが就農して3年目に、不動岩果樹園始まって以来の危機を迎えます。異常気象によってミカンの花が生理落花し、花がほとんどない状況に陥ったのです。


松本さんは暮らしていけるのか不安に思い立山さんに相談したところ、立山さんは「慌てるな。残った花にホルモン処理を行え」と指示。寸暇を惜しんでジベレリン処理を施したところ交配がうまく進み、驚くべきことに例年の7割の収穫量を担保できたのです。この苦しい環境における成功体験は松本さんにとって大きな自信に繋がりました。


こうした中、松本さんは独立すべく動き出します。ミカン生産を行う最適な農地を探すものの、なかなか見つからず困っていた矢先、立山さんより「自分のあとを継いでほしい」と打診を受けます。


立山さんには日本有数の半導体メーカーで役員を務めていた⻑男がおり、一時期は事業継承を模索していましたが、⻑男が若いときに「農業で暮らすのは厳しいので農家になるな」と伝えていた手前、今更感がありました。


松本さんは自分より前に入社した先輩社員の存在もあり、これらの問題が解決されるのであれば是非とも事業を継承したいと申し出ます。立山さんは松本さんの意見を尊重し、松本さんの申し出を快諾。


松本さんは正統な後継者として1町5反のミカン農園を譲り受け、晴れて令和6年2月に27歳にして代表取締役に就任。立山さんとの共同代表で不動岩果樹園ブランドを伸ばし守りつづけることと相成ったのです。

不動岩果樹園のミカンは正式には「蜜柑」と表記します。

蜜柑には登録商標を取得した「ちなつブランド」と「愛果ブランド」が存在し、特に愛果ブランドの品種「みはや」は、2014年に農研機構果樹研究室口之津拠点で十数年の年月をかけて様々な品種を交雑し、大変な苦労の末に開発、品種登録されました。


「みはや」の生産量は極めて少なく、果皮が温州ミカンとは明らかに異なる赤橙色で多くが種なし、浮皮の発生はなく糖度は驚異の平均15度と極めて高い極甘ミカンです。お歳暮などの贈答用としても最適ですが、不動岩果樹園の「みはや」は一度販売すれば瞬く間に売れてしまう代物で、購入すること自体が非常に難しいです。


また、少量ではありますがミカンを皮つきで丸ごとジュースにした商品があり、こちらは今までのミカンジュースの常識を完全に覆す代物で、甘味成分、うま味成分、苦味成分のすべてを併せ持つ新感覚の飲み物であるといえます。不動岩果樹園のミカンを⾷べた者の皆が皆、一様に「美味すぎて言葉が出ない」と評価します。


こうした中、立山さんは91歳にして「ネット環境で全国のお客さまに我が子のように育て上げたミカン、その名も蜜柑ちなつと蜜柑愛果をお届けしたい、⾷べて評価してもらいたい」と極鮮マートへの出品に踏み切りました。


寒暖差の激しい山鹿市で栽培されたミカンは、立山さんの深い探求心から培われた栽培技術と56年にわたる人生経験を生かした高品質の結晶で、一粒一粒を味わっていただきたいものです。


「ちなつブランド」は極早生品種から早生品種へとご注文時期によって4品種の中から適期の品種をお届けします。

「愛果ブランド」の品種「みはや」は皮がむきにくいので、頭部と尻部をカット後、皮ごと三日月状にカットしてから中身を⾷べると最高に美味いとのことです。


「ちなつ」「愛果」共に樹上完熟、専用の蔵熟成にて美味しさの適時を逃さずにお届けするので、到着したらなるべく早めにお召し上がりください。

日本一美味しいミカンを目指し、「いかにものづくりをやり抜くか、ものづくりに終わりはなく時代の動きを見て常に変化していく社会情勢に答えていく、毎日が一年生だ」と語る立山さん。「蜜柑ちなつ」「蜜柑愛果」の名を冠するミカンはまさしく特級品です。

不動岩果樹園のこだわり

人間の背の高さより伸びない樹姿を維持する栽培管理技術

不動岩果樹園の雇用者はみなさん70歳以上であり、樹高があると収穫に時間を要して効率が悪くなります。立山さん曰く「毎年、結実させることが樹姿を低く抑える秘訣」とのこと。


要するに芽や葉に養分が行き過ぎると栄養生⻑が盛んになり樹が茂り大きくなるので、毎年果実を適正数、着果させることにより栄養生⻑にも生殖生⻑にも偏らない栽培管理を行い、樹の無駄な栄養生⻑を防ぐのです。


毎年着果数を揃えるためには、隔年結果の起きにくい品種選択が必要不可欠で、不動岩果樹園では隔年結果の起きにくい極早生、早生品種のみを品種として選定しているのも、これが理由です。

植物成⻑調節剤に頼らない糖度向上技術

ミカン生産者の多くは、根の伸⻑を止めることで水分吸収を抑制し、13度を目指して果実の糖度を高める植物成⻑調節剤を使用していますが、わずか5年間でミカンの樹が弱ってしまうというデメリットがあり、不動岩果樹園では採用していません。

立山さんの理論において糖度向上の要は水はけの向上です。根の生⻑を止めることは、樹を痛めて樹齢を短くしてしまうことであり、適正な基盤整備によるミカンの生理生体に則った水分管理によって糖度向上を実現し得るのが立山さんの技術です。

限界まで水を与えず、ミカンが自ら「生きよう」とする力を引き出す立山農法によって、凝縮された甘味と酸味を持つ香り高いミカンが実るのです。

土づくり

魚粉と肉粉をブレンドした有機質肥料やぼかし肥、与那国島の化石サンゴや海藻を中心としたミネラル等を活用しつつ、夏場の干ばつ対策のために牛糞堆肥と赤土を混ぜて客土し、地表部の保水力を高める取り組みを毎年つづける以外、余計な資材は一切投入していません。

ミカンは果樹であり、無計画に葉面散布資材を活用しても資材特⻑が得られにくいです。むしろ自然環境の影響がダイレクトに品質差に現れてきます。資材に頼るミカン生産は本質が見えなくなるので、基盤整備に重きを置き、根の張りやすい条件を整えていくことこそ生産技術の要です。

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