漢 奥山聡(おくやまさとし)59歳
農家としての心構え「己の考えを変えずして農産物は変わらない、農業は農家の趣味に非ず、社会的道義的責任をもって食の安全と真摯に向き合い続けた先に一つの答えが導かれるのだ」
奥山は先祖代々6代に亘って続く、自然が豊かな奥羽山脈や出羽山地の山々に囲まれし山形県新庄市泉田の篤農家の⻑男として生を受ける。農家としては6代目になるが、本家は更に古く、先祖を辿れば武家という名家のお家柄である。奥山家は父親の代までは水稲の専業農家であり、幼少期から親の仕事を手伝ってはいたが、奥山曰く「当時家業を継ぐ気は全くなかった」という。
農家ゆえに自然の流れで地元の農業高等学校へ進学、1年生の時、高校生活を満喫しつつ自由を謳歌、奥山家の菩提寺で心の修行に没頭し、清い心で粘り強く物事に取り組む精神的土台が完成する。奥山は運動神経が抜群に優れており、高校2年生の時にサッカーで山形県の決勝まで進むという快挙を成し遂げる。高校を卒業後、18歳から25歳まで新庄市内のスポーツ用品店に勤務、営業担当として小中学校を巡り「学校と先生」の関係性が見えてきたゆえ、26歳の時に一念発起して地元の葬儀会社に就職、約1年半の間、出張で関⻄に赴くなど数々の営業経験を積み重ねる。更に父の入院をきっかけに山形県の農協職員であった妻と結婚し、27歳の時、実家にて本格的に就農する事となる。
就農当時、水稲以外の新たな品目で挑戦するべく根深ネギ5反と里芋を作付し栽培を試みるが、栽培の知見が全くなく農業の師もいなかったゆえ、まともな根深ネギは収穫出来ず、以後この状態が5年間続き地獄をみる事に。27歳から42歳までの15年間は地元新庄農協の組合員として共販出荷を行う毎日を過ごす。奥山は就農当時より「農業は組織として動かしていかねば機能しない」との思いが強く、地元の農家と協力して農業法人化を進める動きをしていたが、各々の意見が纏まらず断念せざるを得なかった。
28歳の時、父より正式に経営移譲を言い渡された事がきっかけで複式簿記を学び、徐々に経営者としての頭角を現していく。奥山は知らなかった事ではあるが、父が農協から多額の借り入れをしており、奥山がその負債を背負う形になったゆえ、29歳から34歳までは売上の全てを返済に回す毎日で農業事業に投資する資金は殆どなく、土木作業員として日中出稼ぎで働き、家に戻ると根深ネギや里芋の選果作業、早朝に箱詰めと、寝る暇も惜しんで働き続けるという非常に過酷な毎日を過ごす。
36歳の時、実力が認められ新庄市農協のネギ部会の部会⻑に抜擢される。この当時、新庄市農協にネギ専用の選果場が完成した事から36歳から41歳までの5年間はネギ農家が爆発的に増える。38歳の時、悪徳な資材販売業者に騙され、増収を目指して新規資材を投入したが、全く育たず経営が傾いたゆえ、猛反省し一から土づくりについて勉強し直す。
40歳の時、系外の生協との取引を開始、顧問税理士より「農協出荷から市場出しや個別相対に切り替えるのであれば法人化も考えるべき」との指摘を受け、農業法人化を真剣に考え始めるが、現時点では不可能との判断に至る。
43歳の時、消費者より「里芋の皮むきに時間がかかるゆえ、皮をむいた状態で出荷して欲しい」との要望を受け、里芋の保存性を高めるべく予冷庫、及び真空パックの機械を導入、高鮮度を維持した状態で里芋を安定出荷出来る様になる。
45歳の時、⽼舗葱問屋より江⼾伝統野菜の「千住葱」をつくって欲しいとの要望を受け生産を開始する。千住葱は高糖度の食味が命であり、業者より味への高い評価基準値が示された事から、より高精度の栽培管理、肥培管理を行う様になる一方、固定種であるゆえ、病気に対する抵抗力が弱く連作を繰り返すと病気が多発し生産量が大きく減ずる問題が見えてくる。この年は新庄市立萩野学園や新庄市立日新小学校から食育目的で講演会の依頼があり、小学生を自社の「泉田里芋」の生産圃場に招いて里芋の生理生態について講義を行うという新規取組を開始する。この慈善事業は59歳になる今年も行われ、参加した児童より数々のお礼の手紙が毎年の様に届いている。更には46歳から現在に至るまで、奥山の「泉田里芋」が新庄市の学校給食で採用され、年に2回ほど、芋煮として小学生の口に届けられている。
こうした中で50歳の時、満を持して農業経営力を高めるべく奥山農園から泉菜株式会社へと社名変更し、法人化を図る。社名の由来は地元愛より「泉田地区で野菜をつくる会社」から「泉菜」とする。
2015年5月から10月に開催されたミラノ国際博覧会の日本館山形県ブースにて奥山の「泉田里芋」が採用される。従前の功績が認められたと共に、東北における里芋の収穫時期は11月初旬から12月初旬であるが、この時期には既にミラノ万博は閉幕してしまう事から、特異的な栽培技術革新によって8月から9月に収穫を迎える奥山の「泉田里芋」が採用されたのである。鶴岡市の著名なイタリア料理店のオーナーシェフ奥田政行氏がわざわざ奥山の圃場を訪れ、ミラノ万博で使用する里芋を選びにきたという。当日は山形県の吉村美栄子知事と奥田シェフが協力して名物の「芋煮」を調理実演し来場者をもてなすという記念すべき場で、山形県代表として奥山の「泉田里芋」が大きく評価された事は奥山にとって大きな自信に繋がったという。
52歳の時、葱問屋との売買契約書を締結、固定種の「千住葱」が一般市場流通品目としては適応しにくいゆえ、販売量が安定しない事で泉菜の収益性が悪化した為である。55歳の時、葱問屋の販売先で発注が停止、「千住葱」の売先が失われた事から葱問屋との取引を停止し、固定種から病気に強いF1品種(6品種の順次作付)の変更に舵を切る。
56歳の時、「百姓になるな、農業経営者になれ」と檄を⾶ばし、気合の入った⻑男の新太郎が泉菜へ入社、本格的に根深ネギと里芋の販売における原価分析を開始したところ、里芋の販売単価が生産コストに対して安すぎる事に気がつき、売上金額よりも純利益を重視した経営方針に軌道修正、「数値」という裏付けを元に、利益を担保する価格設定が行い得る様に。原価分析の結果、里芋については面積を増やす選択肢を排除し限られた面積で坪単価を高めて品質を向上させていく経営方針に着地する。
59歳の目下、泉菜の基幹生産品目は里芋と根深ネギであるが、里芋の収穫が8月上旬から9月下旬、根深ネギの収穫が8月下旬から12月上旬と収穫タイミングが8月から12月に集中しており、農繁期以外に従業員の仕事を安定的に確保する必要に迫られた。それゆえ、周年生産可能な品目として山形県では生産量が少なく県内需要のある施設ホウレンソウを選定し、12月から7月下旬にかけて段階的にホウレンソウを播種・栽培・出荷、農業法人として1年間を通して農産物を販売し続け得る仕組みづくりを策定する。奥山は⻑男の新太郎と協力して自社⻘果物の選果場や資材保管倉庫、ビニールハウスが建設可能で、かつ肥料が過度に蓄積していない広大な土地を確保し、生産から出荷までの一連の工程を一拠点に統合する構想に向けて動き出している。
奥山は新規ホウレンソウの生産事業で雇用する従業員については、地元より障碍者の雇用を考えており、厚生労働省と連携して積極的に農副連携事業に取り組む姿勢を示している。こうした奥山の清らかな心、真心たる人間性が体現された形こそ慈善事業なのだ。
奥山曰く「株式会社泉菜として生産、選果、梱包、発送プロセスを統合し、一拠点で作業を完結し得る経営体をつくり上げる事こそ、代表者として取り組む最後の仕事」と語っており、当複合施設が完成した暁には⻑男の新太郎に代表の座を譲るとしている。60歳になる来年、建設事業着工予定、62歳の春には竣工予定である。拠点完成後の作付面積は根深ネギを3町から6町へ増やし、里芋は現状の1町5反を維持、更に施設ホウレンソウは新たに1町歩作付けの予定との事。それゆえ、泉菜は今後とも大規模な作付面積を有し、農副連携事業や社会貢献事業をも執り行う複合経営体としてご当地新庄市の農業を盛り上げていく力強い存在であり続けるのだ。
こうした奥山の偉業を受け継いて、里芋、根深ネギづくりに勤しむ漢こそ泉菜二代目にして⻑男の奥山新太郎(おくやましんたろう)30歳である。
新太郎は父の影響もあり幼少期からサッカー選手を志しており、農業については全く興味がなかった。それゆえ、中学校卒業後は高校サッカー強豪校である山形市立商業高等学校に進学を果たす。父の高校時代の恩師の息子が同校でサッカーのコーチをしたというご縁もあり、指定校推薦を受けて入学する事に。高校時代はサッカーに本気で取り組み、山形県の選抜メンバーに選ばれるほどの実績を残す。商業高校の手前、実家が経営者の家庭が多いゆえ、高校時代に培った人脈は今尚続いているという。
高校卒業後は千葉商科大学に進学、学生生活を謳歌した後、22歳で地元の新庄に帰る。この時、新太郎は農家を継ぐ気はなく、地元企業の株式会社ヤマザワに就職する。ヤマザワは山形県、宮城県、秋田県で合計71店舗の食品スーパーマーケットチェーンを展開する山形県首位の地元業界大手企業である。22歳で入社後、9月には花形の⻘果担当に抜擢され、新庄市内の店舗に配属される。新太郎は⻘果担当になった事で徐々に農産物に対しての興味が強くなり、「いつかは実家で役に立つのでは」と流通の動きを積極的に学ぶ様になる。
半年後には山形市内の基幹店舗に移動、23歳の10月からは実力が認められ宮城県内の筆頭基幹店舗に配属され、更に24歳の8月には宮城県内の別の基幹店舗に移動、新太郎の人生を大きく変える上司と出会う。25歳の9月には宮城県内小店舗のチーフに、26歳の9月には宮城県内新店舗のチーフに抜擢され、新店集客の実力が認められて上司より「2年後にはバイヤーに昇格させる」との声がかかっていた最中、父より「家業を継がないか」との連絡を受ける。
新太郎は父からの提案について本気で悩む。普段より仕事人間で目立つ存在でもある父は地域の農業発展に強い闘志を燃やしてはいるが、周囲の農家からはその実力と優秀さゆえ妬みや嫉みを受けており、このままでは地元農業が停滞していく事は必至であった。「父の情熱をここで終わらせて良いのか、いやここで終わらせる訳にはいかない」と奮起した新太郎は27歳の4月に彼女(後の妻)を連れて実家に帰り、家業を継ぐ事を決意する。その彼女とは28歳の5月に籍を入れて結婚、夫婦となる。妻は一歳年上の高校の先輩で、高校時代に関わりはなかったが、宮城県の店舗に転勤になった頃に妻の友人からの紹介で知り合い、新太郎の情熱が伝わってお付き合いが始まったという。
実家に戻り27歳から28歳の間はアルバイトとして父を手伝う毎日を過ごす。この際、父の人脈や会社の現状について理解度を深めていく。農業は如何せん「どんぶり勘定」で物事を決定する傾向にあるゆえ、新太郎は先ず作物毎の原価分析に取り掛かる。決算書を確認して「純利益がどの程度あるのか、会社に利益を残し得るだけの販売単価になっているのか」を徹底して調べ上げる。また従業員の作業日報の見直しや経営側と従業員との意思疎通の円滑化など業務マニュアルの体系化を図り、毎年毎年データを蓄積して仮令ベテラン従業員が退職しても若手の従業員がマニュアルに則って業務を執り行える様、「業務の見える化」を推し進めるなど内規の構造改革に乗り出す。
やはり大切な事は日々の「業務改善」であり、新太郎曰く「収量データを含め蓄積していく事で得られし情報を次の経営に生かす事が重要」と語っている。これら取り組みはヤマザワで培った経験が大きく、大学を卒業して外部で実力を蓄えてきたからこその成果ともいえよう。
新太郎には、「地元の若手生産者の中には親に抑えつけられて自由の利かない生産者が多いゆえ、皆を集めて農事組合法人をつくりたい」という燃え滾る地元愛、人間愛がある。その為には「自らの実力を示して求心力を高めていく他、近道はなく、本当に美味しい里芋や根深ネギを収益の出せる形で販売し、経済的な部分での農業の優位性を示していく事が重要」と語っている。「新庄市泉田の風景を守り、若い生産者を応援する風土をつくっていく事が農業経営者としての私の務め」と強い意志をもって時代を切り開く新太郎は正しく若手農業経営者の鏡である。
新太郎にとっての父は「親というよりも共に働く同志であり、高い生産技術を有する職人であり、何でも気軽に話せる友人であり、そして神がかり的な存在でもある」という。「父は職人気質であるゆえ、父の思いを従業員に解りやすく租借して伝えていくのが私の役割」と語る新太郎、その新太郎に間もなく⻑子が誕生する予定で、益々気合が入っている昨今、最近は父の経営者たる「クレバー」がなくなってきたゆえ、「今後は自分が泉菜株式会社を引っ張っていくのだ」という強い気持ちが新太郎を突き動かす昨今である。
奥山の偉業を受け継いて、泉菜を裏方から支える漢こそ次男の奥山健太郎(おくやまけんたろう)29歳である。
健太郎は父の影響より地元の山形県立新庄神室産業高等学校農業科に進学後、畜産を専攻して専門知識を深めていく。高校2年生の時にインターシップで訪れた研修先で牛の種つけを行うが、畜産業の実態を知り農業で生計を立てる事の厳しさについて深く考えるきっかけとなる。その一方、健太郎は中学2年生の時からラップの世界にのめり込み、高校2年生の時に父と交渉して稟議書を作成、音楽制作のレコーディングに必要なマックブックを購入して趣味の世界を大きく拡大する毎日を過ごす。
高校時代から「モノづくり」に興味の深かった健太郎は父からの後押しで東京農業大学の姉妹校である東京情報大学総合情報学科に進学を果たす。然しながら、自らの意思で選んだ大学ではなかったゆえ、周囲の環境に馴染めず不登校となり出席日数は半年で僅か30日間、単位数が不足して留年しかかるも親に真実を語る事が出来ず、精神的に苦しくなり下宿先に閉じこもる様になる。暫くして大学から実家に連絡が行き父が激怒、父より「逃げる事は容易であるが逃げてばかりの人生では本当の幸せは訪れない」と諭され退学を踏み止まる。
心境を変えるべくアルバイトを始めた健太郎は職場で仲の良い友達が沢山出来、メンタルが徐々に回復したところで、逃げ癖があり精神的に弱い自分を変えるべく一念発起して単身英国への留学を決意、父に相談したところ賛同を得、約1か月間、英国のホストファミリーの元で海外生活を行う。当時、英語は全く話せず資金もなく携帯電話すら持たない状態で訪英、ある意味「究極の選択」であったのにも拘わらず、いざ始めてみれば留学生活を心から愉しむ事が出来た健太郎。この成功体験は健太郎の人生観を大きく変え、何事にも動じない健太郎の精神性、粘り強さをもって着実に物事を成し遂げる行動意欲の向上に繋がっている。
こうした経験の中で学業にも力の入った健太郎は23歳の時に大学を卒業、東京において営業コンサルタントを中核とする企業である株式会社セレブリックスに入社、1か月間、毎日異なるコンビニエンスストアに派遣されコンビニ定員として業務に当たる。その後、1年間映像制作会社である株式会社メディア・ゲート・ジャパンに派遣社員として出向、2020年のコロナ渦によりセレブリックスの経営が厳しくなり正社員から短時間正社員に移行する中でセレブリックスを退社、2021年7月に出向先であるメディア・ゲート・ジャパンに正社員として入社、企業のプロモーションムービーを作成する傍ら、官公庁のライブ配信事業に携わり、数々の経験を積む。
2022年5月に兄の新太郎が実家に戻る決意を下す。父の年齢を考慮しつつ健太郎も新太郎に同じく実家に戻り就農する事まで考えたが、父より今まで考える事すらなかった地元のしがらみ(旧態依然とした地元農業の問題点)について聞かされ、第三者的な立場から地元新庄のために何かできないか考える様に。それゆえ、2022年7月に「自由な発想で実家や地元を支えたい」との気持ちからメディア・ゲート・ジャパンを退職、個人事業主としての活動を開始する。健太郎は東京と新庄を頻繁に行き来し、ラッパーとしての鋭い感性はもとより、積み重ねてきた業務経験を生かして生産者の価値を高め得る農産物の広告・宣伝活動について実行に移している。
泉菜の自社ホームページは父の情熱を受け止めて健太郎が自ら手掛けたものである。健太郎の業務エッセンスは動画作成とデザインを活用した農園のアピールであり、「父や兄が何を考えて農業経営に取り組んでいるのか、農業を知らない一般の方々に解りやすい動画という形で伝えていく事が大切」と語っている。健太郎は地元の若い農家の息子に対して枠に嵌った考え方ではなく選択肢を増やしていく重要性を唱えている。新庄の農家の息子は逃げる様に地元から東京に出ていくケースが多いとの事から、健太郎の様に固定概念を捨てて個人事業主としてフレキシブルに活動していく「生き方」も選択肢の一つであり、実際には選択肢が無限大に広がっている事を若い世代に伝えている。こうした実績も相まって健太郎は2023年3月より地元新庄の基幹業務を請け負う事に成功、地域創世の立役者として積極的に活動している。
健太郎にとっての父は「人間的に憧れの人、超えられない人」「反骨精神をもって逆境を跳ね返してきた人」であると同時に、「親父であり、親友であり、仲間である」という。今までの父は自分中心の考えが強かったが、最近は家族や従業員のために頑張る姿に変化してきた事が健太郎にとって感慨深いという。
健太郎は「父や兄が不得意とする動画やデザイン、マーケティングの部分で農業経営をサポートし、泉菜としてのブランディングを早期に確立したい」としている。健太郎にとっての兄は「双子の様な存在」であり、直近1年で周囲が見渡せる程に大きく成⻑したという。「お互いがお互いに過ちを指摘し、軌道修正を加えた上で二人が納得する形で今後の泉菜ブランドを大きくしていきたい」との夢を語る健太郎、あえて第三者的な立ち位置で、俯瞰的に家業の方向性を見定め、裏方で泉菜の根幹を支え続ける健太郎の生き様は正に「縁の下の力持ち」であり、人としての魅力に溢れているのだ。
泉菜が生産を行う品目は里芋と根深ネギであるが、里芋は「泉田里芋」、根深ネギは「泉ノ葱」と自社のブランド名が存在する。「泉田里芋(品種は土垂)」は江⼾時代より「四ツ⾕芋」として地元で親しまれてきた。然しながら、従来有機栽培を主体に育てられていた里芋も平成に入り農家の数が大幅に減少、その生産を化成肥料に頼る様になっていた。奥山は法人化以前に「泉田里芋生産組合」を立ち上げ、里芋の無農薬化、ブランド化に向けて研究を重ねてきた。こうした取組により奥山は江⼾時代に盛んであった地元新庄の里芋生産を復活させたのである。
「泉田里芋」は楕円形で食感がねっとりと柔らかいばかりか、煮崩れし難く煮物の他にも様々な料理に活用できる食材である。奥山はシルクの様な艶と食感の「泉田里芋」に拘って、⻑年品種改良をし続けている。⻑い月日をかけて育種した「泉田里芋」は既存の「土垂」とは全く別物であり、繊維質が少なく⻭でかじらなくても蕩けていく食感は驚きを隠せない。
「泉ノ葱」は季節に合わせて6品種を使い分けて生産を行っている。一般の根深ネギよりも太く、力強い香りと柔らかな食感が魅力の「泉ノ葱」、その栽培には高度な技術が必要である。泉菜では創業以来、土壌改良を重ね、奥山しか生産し得ない大きさと美味しさを併せ持つ根深ネギ、熱を加えると芯が⾶び出るほどのトロトロの食感と深い甘味を味わえる。高い地力を活用し葉をじっくり生⻑させ可食部が締まっている「泉ノ葱」は、ひとたび子供が食べ始めると箸が止まらないほどの革新的な栽培技術で生産を行っている。
全国的にみても、農業生産法人という組織体でありながら革新的な職人技術で里芋と根深ネギをつくり切る、「規模と品質」を両立させた農業経営者は奥山の他存在しない。泉菜の原点は「土づくり」である。泉菜の経営理念である「良樹細根」は正に土から良質な農産物をつくり、消費者一人一人の生活を豊かにするという思いが込められている。
我々のミッションは「免疫力の高い野菜をつくって消費者の健康を守り、未来に農業を残していく事」と語る奥山。感染症などの問題により、我々消費者一人一人の免疫力が重視される中、野菜が有する免疫力は人体に大きく影響する。免疫力の高い野菜をつくり得る泉菜の技術力をもって、文化の継承、地域の活性化、地域の景観を守っていく、農業という一次産業が齎す影響力は計り知れないゆえに、農業の楽しさ、大変さ、それらを全て含め消費者や未来の若者に対して農業と農産物をより良く知ってもらう事が泉菜の経営スタンスである。
食べる事は人間として大切な事である。今日食した農産物は明日の血となり肉となる。それゆえ、農産物自体が健康でなければ意味がない。個人事業から農業法人に移行するという事は規模拡大が条件となる。然しながら、人手が不足した状態での規模拡大では手入れが後手になり病虫害が発生、結果農薬づけの農産物しか生産できなくなる。「小規模の農家であれば事前に手を加え得るゆえ、無農薬栽培も可能であろう、然し生産量が少なくなってしまうゆえ、経営を維持するだけの収益が得られなくなり、結果倒産を招く事となる」。
要するに「規模拡大による収量の最大化を図りつつ、日頃の手入れを前倒しに行って農産物を健康に育て、自然と減農薬になっていく栽培体系を確立する事が農業法人の使命なのだ」と奥山は語っている。
この様に地元に根差した泉菜の経営哲学によってつくり上げられし奥山の里芋と根深ネギは日本全国からの固定ファンが非常に多く、ひとたび各々の出荷先に販売を行うと高単価でも即時完売するほどの人気で、購入したい顧客が後を絶たず毎年予約待ちの状況が続いている。
こうした中、59歳にして「ネット環境で全国のお客様に我が子の様に育て上げた奥山の里芋、その名も「泉田里芋」、そして根深ネギ、その名も「泉ノ葱」をお届けしたい、食べて評価してもらいたい」と極選マートへの出品に踏み切る。奥山曰く「品目や品種ごとに収穫のタイミングを見計らい、ベストな状態でお客様の手元にお届けする」との事。
日本一美味しい里芋と根深ネギを目指し、「本当に美味しい里芋は煮物調理が最高、山形の郷土料理である芋煮にすれば里芋の食味と食感を一層味わえる、一般的な里芋に比べて粘度が高く、柔らかな食感であるゆえ、揚げ物にしても美味しい」、「本当に美味しい根深ネギは塩焼きが最高、炭火でもフライパンでもトースターでもよいので、そのまま焼いて素材本来の味を楽しんで欲しい」と語る奥山。
極選マートの皆様には最高級の秀品しかお届けしない。「泉田里芋」の名を冠する奥山の里芋、そして「泉ノ葱」の名を冠する奥山の根深ネギはまさしく特級品。これが泉菜のこだわりである。
泉菜の里芋
独自の循環栽培体系を確立
里芋と根深ネギの輪作で連作障害の発生を抑え込む栽培体系を確立している野菜は同じ品目を作り続ける「連作」を行うと土壌病害の発生や生育不良が生じて健全な収穫物が得られない→収量の不安定→収益の不安定が現実問題として起こり得る。この「連作障害」を回避するべく、泉菜では里芋を2年間作った後、次作には根深ネギを1年間作付け、更に2年間里芋を栽培後、根深ネギを1年間作付けするという奥山ならではの循環栽培体系によって、常に健康で美味しい農産物を収穫し続ける事が出来るのだ。
革新的な栽培技術
追肥の施用回数を減じて孫芋を肥大させ、増収を実現する革新的栽培技術を有している里芋は4月下旬から5月下旬にかけて定植する。緑肥の力を活用して元肥を施用しない泉菜の里芋の葉色は一般的な里芋に比べてうすく、葉中の硝酸イオン濃度は1000ppm以下、カリウムイオン濃度は5000ppm以上と化成肥料を中心に育てた里芋とは大きな違いがある。地上部の背丈も慣行栽培の里芋に比べて3分の2程度と低く、可食部である地下茎を肥大、充実させる極めて高レベルの生産技術が光るところである。
「泉田里芋」は子芋や孫芋を食す品種であり、通常6月下旬に子芋の肥大を目的に有機態窒素を追肥として土壌に施すのであるが、何と奥山はこの時期の追肥を全く行わず、地下茎を太らせる生殖生⻑に寄せる事により地上部の徒⻑防止のみならず、孫芋の多収に繋げる事が出来る。その後、7月下旬から8月上旬にかけて有機態窒素とカリの粒状肥料を追肥として土壌へ施す事により、孫芋の肥大が急速に進み、8月15日以降は美味しくて多収の孫芋が大量に収穫出来る。8月1日よりお盆需要の子芋の出荷を開始するが、子芋の収穫量を最小限に抑えて孫芋に養分を集中させ、1株当たりの孫芋の収穫個数を増やしていく方が結果的に多収になりやすいのだ。
奥山曰く、「里芋は果菜類とは違って地下茎であるゆえ、栄養生⻑軸に傾く新月前後のタイミングで収穫を行う事で、硝酸イオン濃度が低下した状態で本当に美味しい孫芋を収穫出来る」と語っており、この革新的技術こそが泉菜ブランドの凄みである。元肥は緑肥のみ、僅かな追肥の施用のみで里芋の栽培を行い、収量と食味のバランスを最大限に引き出していく奥山の栽培センス、職人芸は一般的な生産者が容易に真似できる技術ではないのだ。
こだわりの土づくり
緑肥を積極的にすき込み、土壌有用微生物の働きを最大限高める土づくりを行っている奥山は近年、里芋や根深ネギの畑に投入する資材について、本当に必要な資材なのか、厳しい目で取捨選択を行っている。
⻑年の経験より土づくりの重要性に気付いた奥山は、土壌改良や窒素の補給を成し得る「緑肥」に目をつけ、更には使用する緑肥について「エンバクなど冬場に霜下で枯れる品目」を選定している。「霜下で枯死しない緑肥」を使用するとネダニが発生し、生産安定上、逆効果になってしまう。採用する緑肥はイネ科やマメ科の植物が多いが、「一種類に限定するよりは数種類を選択した方が土壌物理性、生物性の観点から有効」と語る奥山。
「緑肥」の作付けは雑草抑制にも繋がるのみならず、有用微生物の餌として「緑肥」が機能すると仮令土壌の塩基バランスが崩れていても秀品率の高い農産物を収穫し得る他、大雨の後でも根傷みが生じにくい。「緑肥」で土壌改良を行った後に育てた農産物は環境ストレスに強く、植物自体の⾶躍的な免疫力の高まりによって外的被害を最小限に抑える事が可能となる。元肥として一般的な化成肥料の肥料分に頼るのではなく、肥料の替わりに緑肥を活用した土づくりの制度を高める事で「永続的な農産物の安定生産」を実現する奥山の千里眼には頭が下がるところである。
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